不安障害になぜ・いつなったかと、現在の状態。。。大学受験と絡めて

はじめまして。私は現在東京大学に通っています2年生です。不安障害持ちで、大学生活がものすごくきついです。

不安障害とは

不安障害は精神疾患の一つです。この病気では、普通の人ならば不安に感じないようなことも不安に感じてしまう症状がでます。担当のお医者さんによると、私は全般性不安障害です。

 

悩んでる症状

私が悩んでいる症状は、「落ち着いて本が読めない」ことでしょう。元々、本は小学生の頃から好きでしたし、大学生は本、とくに難解な学術書などからは離れられません。ですので、この症状は特に大学で生きることを難しくします。

 

いつ発症したのか

元々恥ずかしがり屋で、クラスの前でみんなに発表をする、というものは苦手でした。この時点では、まだ普通で、不安障害とまでは呼べないでしょう。しかし、高校に入ってからは「恥ずかしい、不安だ」という程度がはなはだしくなるとともに、そのように感じる範囲が日常生活(上述のような読書に加え、外出など)にまで拡大しました。

なぜ発症したのか

もちろん、私は医学の専門家ではないので決定論的に原因を述べることはよろしくないでしょう。ですので、参考程度に読んでほしいです。

 

原因?

中学に入ると順位が出される定期テストが存在しますよね。私は初期の段階から好成績をおさめたのですが、それが次第に自分の精神的支柱になってしまいました。運動も苦手で、コミュニケーション能力も低いような生徒がクラスや友達間でのアイデンティティーを形成するために成績の良さにすがる、という経験はほかの人にもあるかもしれません。私は完全にこのパターンでした。だって、一人で黙々と、それこそ他の生徒などとのコミュニケーションも必要とせずに勉強すれば、成績が返ってくる、そして良い成績を得れば親や友達から認められたような気持ちになれるのですから。元々自己肯定感が低い人間でしたので、人に認められたいという承認欲求も人一倍強く、「成績優秀」というものに縋って中学、ひいては高校に通っていました。このような状況の何が根本的に問題なのでしょうか。私の答えとしては、「歪んだ認識が人間を勉強嫌いにし、更には生きる気力を奪っていく点」です。中学生の頃は勉強が好きでした。ですが、高校に入るころには、勉強はもはや「人と争うための道具」へと堕してしまい、知的好奇心に基づく探求心や、或いは学識を通して社会貢献をするんだ、といった使命感などは喪失しました。自分より悪い成績の人を見下す一方で、自分より良い成績の人を必要以上に崇拝したり妬んだりしました。つまるところ、学校での成績の良さがそのまま人間としての存在価値に直結している、というような歪んだ対応関係が自分の脳内で生成されていたのです。この価値観が不安障害の原因の1つでしょう。このような価値観を持った人間が自分より賢い(と自分が認識する)人間に出会うとどうなるでしょうか? 私は、自分は無価値な存在なんだ、と思ってしまいます。そうすると、生き急ぐように勉強漬け、まさに「勉強地獄」へと入り込んでしまうのです。アイデンティティークライシスをなんとか避けるためには、勉強し続けるしかなかったのです。今考えると相当気味が悪い考え方です。学業において人並外れた能力を発揮する中高生はいますが、別に彼らは私のように競争意欲に支配されて自分の能力を極限まで高めていったわけではないでしょう。むしろ、興味に基づいて勉強していたはずです。また、勉強ができるか否か、が人間としての価値を確定的に決めるというのも勿論批判されるべき考え方です。勉強することには価値があります。それ故に義務教育の名の下に教育が組織的に施されているのでしょう。ですが、人間には向き不向きはありますし、いわゆる「学問」にさほど興味がない人も、それとは異なった領域で個性などを発揮できます。

 

好成績をおさめた私は、大学受験では東京大学を目指しました。勉強が好きだ、という純粋な面があったことは否定しませんが、学歴社会における頂点としての東大生というものになりたかった、すごいと思われたかったという動機の方が大きかったように思われます。不安障害になった直接的原因はこの受験でしょう。受験を意識した時期と症状の出現時期が近いこともこれを補強すると考えています。上述したように、私は異常に勉強というものに重きを置いていました(悪い意味で)。ですから、模試やテストでどれくらいの点数がとれているのか、に非常に敏感となり、いつしか試験中や勉強の最中に不安が襲うようになりました。現代文の文章を読んでいると「私は論理を正しく追えているのか、本当に内容を理解できているのか」と異常に不安となる、といった具合です。多分、「わからない」ということに対する不安が本当に高まっていたのでしょう。